由緒
太閤さんは、天正二年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並みを造りに着手されました。その後、約十年のあいだ長浜町に善政を施され、大阪や京都に移住されてからも長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。
この現われが天正十九年に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状で、幕末まで大きな恩典になりました。
太閤さんが、慶長三年(1598)八月十八日に伏見城で逝去されますと、長浜町民は京都の豊国廟にならって逸早く豊國神社を建立しました。ところが徳川幕府の政権下では、太閤さんを神格化することは許されず、豊國神社は京都と共に取り壊されました。
それ以来、町役人十人衆が太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていましたが、一計を案じて寛政五年(1793)に彦根藩へ『えびす宮』を建立する許可を願い出て一社を建立、太閤さんを裏に隠してお祀りしました。これが『十日戎』の始まりです。
弘化三年(1846)になりますと、太閤さんの恩徳を町民に布撫するために又々一計を練り、豊臣家の一字をとり『豊神社』と書いて『みのり神社』と呼んでいました。その名残が東の外堀に架かる「みのり橋」です。
明治維新が過ぎ、大正九年(1920)に天下晴れて『豊國神社』と名乗れるようになりますと、太閤さんをお祀りする行事が市民挙げて盛大になりました。
太閤さんの御神霊が不運だった江戸時代に、長浜の先人の発想により前立ち神になって戴いた恵比寿神の祭典も盛大に行っています。合祀神の木村長門守公は豊臣秀頼公を最後まで守護した人、加藤清正公は太閤さんの腹心の部下であった所以による神々です。
御祭神
豊臣秀吉公
加藤清正公
八重事代主命えびす宮
木村長門守重成公