長浜豊国神社の歴史は、長浜の町衆が豊太閤を慕い、崇めてきた歴史です。
創建は慶長五年(1600)。江戸時代、豊臣家の滅亡とともに長浜豊国神社も苦難の時代を迎えたが、
長浜の町衆は、表立てとしてえびす神を祀り、その奥殿に密に豊太閤を祀り続けてきました。
多くの豊国分社が廃絶したなかで、長浜の豊国神社が四百年間、連綿と守り伝えられてきたのは、
町衆の秀吉に寄せる想いの発露です。

境内の見どころ

本社

向拝は檜皮葺き唐破風づくり、拝殿屋根組みは千鳥破風桟瓦葺き。神殿は神明造りで千北・勝男木(鰹木)を置き銅板葺き、江戸時代中期の建造物。

稲荷社

拝殿の八十枠の格天井には、京都の絵師 徳力富吉郎画伯の四季の花鳥の図を華麗に施す。建築は近代様式。周囲に敷石の回廊を有し、「お百度めぐり祈願」の様式をそなえています。

瓢箪池

太閤さんの馬じるしに因んで瓢箪型の池があり、江戸時代の長浜町内の河川から廃棄回収された橋の親柱を添えています。稲荷神社前にある池の畔に見られる。

虎石

長浜城内に庭園が造られたとき、加藤清正が寄進した庭石が太閤さんのお気にいりでした。元和元年(1615)に長浜城を廃して彦根城へ移築する時この石は大通寺へ移設されましたが、毎晩々々「いのうーいのうー」と虎が吠えるように鳴き叫びますので、豊国神社へ戻したところ静かに鎮座したと言います。以後「霊石虎石」と呼ばれて瓢箪池の畔にあります。

加藤清正公銅像

太閤さん子飼いの腹心の部下。終生献身的に豊臣家を守護した武将で今でも豊國神社の護衛を司っています。長烏帽子兜と十文字槍は清正公のシンボル。

長浜開町句碑

竹中半兵衛重治公の子息 重門公が著した「豊鑑」に、太閤さんが長浜城を築城した経緯と長浜の将来を祝った重門公直筆の「君が代も我が代も共に長浜の真砂の数のつきやらぬまで」の句があり、この歌を石文にして蔵屋敷前に立っています。この石は、元亀元年(1570)に信長公が越前朝倉公攻略の途上浅井長政公の軍勢に背後を攻められて総退却をした時、しんがりを命じられた秀吉公は苦戦のすえ疋田峠で岩に身を隠して難を逃れました。後世「太閤身隠しの岩」と伝承されていたものを当地に移して句碑に建立したものです。

福万年亀

「福まねき」と読んで出世・金運・縁談などの幸運招来の精霊石。正面の容姿は、万年の歳を経た大亀が千変万化の大海原を遊泳する姿に見え、福万年亀岩に祈願を込めて我が身を託せば難関打開、開運吉兆の幸運を招く。瓢箪池の東にあります。

馬像